1922年(大正11年)
1922年(大正11年)
1922年(大正11年)5月、福岡県若松市(現・北九州市若松区)にて、溶融亜鉛めっき槽を備えた日本初の鉄塔・鉄柱メーカーとして創業しました。
初めは、池袋(東京)にて鉄道車両事業を展開していた株式会社服部製作所の一工場として産声をあげました。当時服部製作所は、日増しに増大する電気需要に着目し、木製が主流だった電信柱の代わりとなる、三角断面の小型鉄柱(三角鉄柱)を開発しました。これを大々的に製作、販売することを企図して、三角鉄柱の材料となる60度山形鋼の鋼材メーカーの敷地内に専門工場を建設することとなりました。
こうして、1922年(大正11年)5月、最新式の溶融亜鉛めっき槽を備えた日本初の鉄塔・鉄柱工場(若松工場)が完成しました。その後、若松工場が服部製作所から分離独立したことから、JSTグループは若松工場の完成を創業と位置付けています。また、工場長として若松工場建設の陣頭指揮を執り、その後の社業の発展に大きく貢献した有田勇次郎を、JSTグループの創業者と位置付けています。
1938年 昭和13年 |
若松工場が、株式会社服部製作所から工場施設、従業員等の一切の権利義務を引き継ぎ、株式会社若松服部製作所として分離独立しました。本社は、東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)、資本金は1百万円でした。 |
---|---|
1952年 昭和27年 |
大阪精機工業株式会社(現・アイエスケー株式会社)東京工場をグループに取り込み、大森工場として、鉄塔用ボルト・ナットの製作を開始しました。 |
1955年(昭和30年)
1961年(昭和36年)
鉄塔の需要量増大を受けて、送電網の迅速な整備に貢献するため、東京都江東区南砂町(現・江東区新砂)に、砂町工場を新設しました。
1961年(昭和36年)
1961年(昭和36年)
1961年(昭和36年)、国内初の矩形MC鋼管鉄塔を九州電力株式会社から受注しました。この鉄塔は、JSTグループが初めて手掛けた鋼管鉄塔となり、JSTグループ発展の礎を作るものとなりました。
(注)MC鋼管鉄塔とは、鋼管内にコンクリートを充填した鉄塔です。一方で、鋼管内にコンクリートを充填しない鉄塔を、中空鋼管鉄塔と呼びます。中空鋼管鉄塔は、JSTグループが世界で初めて開発しました。
また、同年、社名を日本鉄塔工業株式会社と改めました。
1963年(昭和38年)
1963年(昭和38年)
東京オリンピックを目前に控えた1963年(昭和38年)、今後の道路インフラの需要の高まりを見込んで、橋梁工場を竣工し、橋梁事業に進出しました。あわせて、橋梁、鉄骨および道路関係施設を担当する営業2部を発足させました。
営業活動を開始した当初は、鉄塔メーカーとしての企業イメージが強く、受注に至るまでに難航しました。こうした中で、社員一丸となった地道な営業活動が実を結び、同年6月、第1号物件として九州地方建設局長崎国道工事事務所から第一日宇橋を受注することに成功しました。
第一日宇橋は、国鉄佐世保線を跨ぐ国道35号線にかかる橋です。このため、黒煙を上げる列車が架設作業現場の下を通過することから、現場作業は煙除けを付けるなど苦労が絶えませんでした。こうした苦労を乗り越えて無事竣工し、発注者である九州地方建設局からも高く評価され、その後の橋梁事業の発展の礎となりました。
この第一日宇橋は、半世紀以上経った今も当時のままの姿で残っています。
1965年(昭和40年)
1966年(昭和40年)
MC鋼管鉄塔受注後、様々な研究開発と試行錯誤を重ねることで、1965年(昭和40年)に、鋼管へのコンクリート充填が不要となる中空鋼管鉄塔の開発に世界で初めて成功しました。
翌年には、中空鋼管鉄塔に欠かせない部品である、鋼管部材同士を連結する鍛造フランジ継手も開発しました。
以降、中空鋼管鉄塔は全国の電力会社に幅広く採用され、今では大型鉄塔の代名詞となっています。この過程で、当社は中空鋼管鉄塔のパイオニアとして、全国の送電網の整備に大きく貢献してきました。
1967年 昭和42年 |
若松工場に中空鋼管鉄塔専用工場を新設しました。 |
---|---|
1968年 昭和43年 |
愛知県豊橋市に豊橋工場(鉄塔および部品製作工場)を新設しました。 |
1970年 昭和45年 |
豊橋工場隣接用地に大型鉄塔試験設備を新設しました。 |
1978年 昭和53年 |
有田了社長(当時)が社団法人日本鉄塔協会第3代会長に就任しました。 |
1980年 昭和55年 |
ボルト・ナット事業を行っている大森工場を分離独立し、株式会社日本鉄塔大森工場を設立しました。 |
1984年(昭和59年)
1984年(昭和59年)
1984年(昭和59年)、橋梁の長大化に伴い、大型橋梁物件の塗装、仮組、出荷等に対応できるように、北九州市若松区響町に若松鉄構センターを新設しました。さらにこの後、受注量の増大と一層の橋梁長大化を受けて、新たな工場が必要となったことから、同センター内に超大型橋梁にも対応可能な橋梁専門工場を新設しました。こうして、超大型橋梁の加工から仮組、塗装、保管、出荷までの一貫した作業体制が確立されました。この結果、東京湾にかかるレインボーブリッジ、関西国際空港の連絡橋など、数多くの大型橋梁の製作に参画することが可能となりました。
1987年 昭和62年 |
UHV(1,000kv)鉄塔の製作を行うため、千葉県佐倉市に千葉工場を新設しました。あわせて、砂町工場の機能を千葉工場に移転するとともに、砂町工場敷地に高層オフィスビルを建設することとしました。 |
---|
1990年(平成2年)
1993年(平成5年)
1993年
砂町工場の跡地に、高層オフィスビルである新砂プラザが竣工しました。ビルの1階部分では、江東運転免許試験場に最も近い時間貸し駐車場を運営しています。
1993年 平成5年 |
有田哲哉会長(当時)が社団法人日本鉄塔協会第5代会長に就任しました。 |
---|---|
2001年 平成13年 |
豊橋工場の周辺の都市化に伴い、不動産の有効活用の観点から、同工場敷地を大型ショッピングセンターとして開発することとしたうえで、鉄塔設備と試験設備を若松工場に集約しました。 |
2003年 平成15年 |
生産部門の最適配置の観点から、千葉工場の鉄塔製作部門を若松工場に集約しました。 |
2004年(平成16年)
2004年(平成16年)
日本全国で採用された中空鋼管鉄塔のうち、建設後長い年月を経たものについて、より長く使うためのメンテナンスのニーズが非常に高まってきました。こうした中で、いち早く、中空鋼管鉄塔の画期的なメンテナンス方法である「NT-鋼構造物の長寿命化システム」を開発し、鉄塔メンテナンス事業に進出しました。
このシステムは、鋼管内部の状況を、独自開発のカメラや超音波装置を用いて精密に点検し、異常や経年変化があれば、部材の取替や、独自開発の補修装置による異常の除去と補修を可能とする、最先端の手法です。
このメンテナンス・システムを武器に、鉄塔メンテナンス事業は、全国の送電網の効率的な維持補修に大きく貢献しています。
2009年(平成21年)
2009年(平成21年)
近年のインフラ長寿命化ニーズの高まりをいち早く捉えて、通常の溶融亜鉛めっきボルトよりも飛躍的に防食性能(耐食性能)を高めた高耐食性ボルト「NT-DEC®ボルト」の開発に成功しました。溶融亜鉛めっき処理に加えて特殊な複合皮膜処理を施すことで、腐食の進行を格段に抑え、鉄塔の維持・補修コストの低減に大きく貢献しています。
2009年(平成21年)
長年、鉄塔や橋梁に関する仕事をメインとしてきたが、近年ではそれら以外のデザインに優れた構造物にも多く取り組んでいる。平成21年に、KOBE鉄人PROJECTの一環として製作された鉄人28号のモニュメント製作に参画。中の鉄骨部分の製作を担当した。
2010年(平成22年)、世界一高い自立式電波塔である東京スカイツリー®の部材製作に参画しました。製作箇所は、地上部から天望回廊までの部分のうち、ウイング2工区と呼ばれる部分です。大小様々な部材を含め、東京スカイツリー®の全体重量の約10分の1を製作しました。非常に難易度の高い物件であったため、当社の技術力の高さを示す絶好の機会となりました。
2010年 平成22年 |
有田陽一社長が社団法人日本鉄塔協会第8代会長に就任しました。 |
---|---|
2012年 平成24年 |
補強冶具を使用した鋼管鉄塔腹材取替工法の開発が、送電線建設技術研究会・技術開発賞を受賞しました。 |
2013年(平成25年)
2013年(平成25年)
2013年(平成25年)、鉄塔・橋梁事業で長年培ってきた設計や製作の技術、ノウハウを活かして、太陽光発電パネルを支える架台の提供を開始しました。お客様のニーズに応じた最適な構造プランをご提案することで、数多くの大規模太陽光発電所(メガソーラー)に採用頂いています。
2016年(平成28年)
2016年(平成28年)
やりがいや充実感を感じながら働き、子育てや介護、自己啓発の時間、地域との関わりも持てる。そんな調和の取れた生活を推進・実践している企業・団体、個人を」表彰する「北九州市ワーク・ライフ・バランス表彰」において、最高評価となる市長賞を受賞しました。